【コラム】ラマンとSERS…その違いは何か?
2021/02/01
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ラマン分光の専門家と低濃度サンプルの検出可能性について話したことがあれば、「通常のラマンでは感度が足りないかもしれない……でもSERSなら使えるかもしれない」という言葉を耳にしたことがあるのではないでしょうか。では、この二つの技術には実際どのような違いがあるのでしょうか。そして、なぜSERS(表面増強ラマン散乱、あるいは表面増強ラマン分光法)は低濃度サンプルの分析に適しているとされるのでしょうか。ここでは、ラマンとSERSの技術的な違いに加え、それぞれのデータをどのように捉えるべきかという実務上のポイントについても見ていきます。
通常のラマン分光法では、レーザー光を試料に直接照射します(図1a)。レーザー光は分析対象物の化学結合によって散乱され、このうち非弾性散乱光を集めて処理することでラマンスペクトルが得られます。非破壊であること、ラマンバンドの選択性が高いこと、そして水の影響を受けにくいことから、ラマン分光法は有機・無機いずれの系においても、定性分析・定量分析の両面で有用な分析ツールとなっています。
しかし、ラマン分光法は数十年にわたり、実際の応用分野では十分に活用されてこなかった技術でした。その理由として、大きく2つの限界が挙げられます。1) ラマン散乱そのものの感度の低さです。入射光子のうちラマン散乱を起こすのはおよそ100万個に1個程度に過ぎません。2) 蛍光発光による干渉です。これは分析対象分子の性質や使用する励起波長によって左右されます。蛍光はラマン散乱よりもはるかに効率よく起こる競合現象であり、ラマン信号を完全に覆い隠してしまうことがあります。
分析対象分子の散乱強度や試料マトリクスによって左右されるものの、通常のラマン散乱における一般的な検出限界は、濃度にして約1~10%程度です。疾病検出や麻薬の同定といった一部の用途では、この検出限界では必要とされる感度に対して桁違いに不足することがあります。このような場合、アプリケーションサイエンティストはSERS測定を勧めることがあります。必要となるハードウェアは通常のラマン測定と同じですが、SERS分析にはサンプリング方法に違いがあります。この違いを理解するために、SERS効果について少し見ていきましょう。
1970年代、複数の研究グループが、ピリジンのような有機分子のラマン信号が、粗面化した金属基板に吸着させることで大きく増強されることを観測しました(図1b)[1–3]。この現象を説明する理論はいくつか提唱されましたが、現在では、増強のメカニズムは大きく2つに分けられると考えられています。主な寄与を占めるのが電磁的増強機構であり、化学的機構がそれより小さい割合の増強を担っています。
電磁的増強機構は、貴金属(通常は銀または金)からなる粗面化ナノ金属基板を用いることと、局在表面プラズモン——選んだ金属の価電子の量子化された振動——の存在によって生じます。レーザーが試料とナノ基板の複合体を励起すると、局在表面プラズモンが共鳴状態に駆動されます。これがいわゆる「LSPR」の励起です(図2)。
この状態では、レーザーの励起光と試料からの散乱光の両方が増幅されます。図1bの矢印が太く描かれているのは、この強度の増大を表しています。
この電磁的増強機構は、理論上、最大で10の11乗倍もの信号増強をもたらすとされています[4]。一方、化学的機構はレーザーの励起波長と共鳴する電荷移動によるもので、理論上の増強係数は最大でも10の4乗程度です[5]。この電荷移動によって、干渉となる蛍光を消光することもできます。これら2つの増強機構が組み合わさることで、通常のラマン散乱を制限していた感度の低さと蛍光干渉の両方を克服できるのです。実際、SERSによって単一分子を検出できることを示した研究も存在します[6, 7]。
こうしたナノ構造の作製は、この20年間で学術研究が盛んになってきた分野です。SERS基板にはコロイド懸濁液、固体ナノ球、シリコンチップ上に金属をコーティングしたものなどがあります。増強効果は、分析対象分子がナノ構造同士の接合部(いわゆるSERSの「ホットスポット」)に位置するときに最大となる傾向があるため、研究者はこうした基板の形状やプラズモン活性を調整することで、研究目的に応じてさらに高い増強レベルを実現できます。
また、実際の用途向けに市販されているSERS基板もあります。これらの基板は扱いやすく、柔軟性があり、低コストであるように設計されていますが、高度に規則配列された基板ほどの感度は得られない場合があります。当社では、紙ベースのSERS基板と、ガラススライドに実装したチップベースのSERS基板の両方を提供しています。
アプリケーションサイエンティストと相談したうえで、市販のSERS基板が自分の用途に適していると判断できる場合もあります。しかし、用途によっては、必要な検出限界を満たすためにさらに高い感度が求められることもあります。そのような場合には、ナノ加工を専門とする大学の研究室と協力して測定を行うという選択肢もあります。
「既存のラマン参照ライブラリを、そのままSERSスペクトルの解析に使えますか」というご質問をよくいただきます。図3は、フェンタニル塩酸塩の通常ラマンスペクトルと、市販のSERS基板上でのフェンタニル塩酸塩飽和溶液のSERSスペクトルの違いを示しています。
フェンタニルの通常ラマンスペクトルには、対応するSERSスペクトルよりも明らかに多くのピークが現れています。また、SERSのバンドは通常のラマンバンドと比べて明らかに幅が広くなっています。SERSスペクトルの場合、観測されるのは分子の振動モードだけではなく、基板に吸着した状態の試料そのものです。そのため、SERSスペクトルには、基板そのものに由来すると考えられるピークが現れることもあります。
SERSスペクトルと通常のラマンスペクトルにはこうした違いがあるため、市販のラマンライブラリをそのままSERSスペクトルの解析に使うのは難しい場合があります。SERSによる物質同定を必要とするユーザーには、ご自身の基板を用いた独自のSERSスペクトルデータベースを構築することをお勧めしています。また、当社のTacticIDハンドヘルドラマン製品の一部には、SERS専用の麻薬ライブラリも搭載しています。より複雑なデータ解析については、豊富なSERS関連文献も参考にしていただけます。
低濃度サンプルの検出用途や、蛍光がラマン信号を覆い隠してしまうような場面において、SERSは研究者にとっても、実務上の課題解決にあたる方にとっても、非常に価値のある技術です。詳細については、当社ウェブサイトをご覧ください。
お役立ち情報
参考資料
[1] D.L. Jeanmaire and R.P. Van Duyne, J. Electroanal, Chem. 84, 1–20 (1977).
[2] M.Fleischmann, P.J.Hendra, and A.J. McQuillan, Chem. Phys. Lett. 26, 163-166 (1974).
[3] M.G. Albrecht and J.A. Creighton, J. Am. Chem. Soc. 99, 5215-5217 (1977).
[4] J.P Camden , J. A. Dieringer, Y. Wang, D.J. Masiello, L.D. Marks, G.C. Schatz, and R.P. Van Duyne, J. Am. Chem. Soc. 130, 12616–12617 (2008).
[5] R. Pilot, R. Signorini, and L Fabris, “Surface-Enhanced Raman spectroscopy: Principles, Substrates, and Applications”. In: Deepak F.L., editor. Metal Nanoparticles and Clusters: Advances in Synthesis, Properties and Applications. Springer; Cham, Switzerland: 2018. pp. 89–164.
[6] J.A. Dieringer, R.B. Lettan, K.A. Scheidt, and R.P Van Duyne, J. Am. Chem. Soc.129, 16249–16256 (2007).
[7] K. Kneipp, Y. Wang, H. Kneipp, L.T. Perelman, I. Itzkan, R.R. Dasari, and M.S. Feld, Phys. Rev. Lett. 78, 1667-1670 (1997).